看脚下を特集する月刊『致知』6月号から涙が出た話

人間学を学ぶ月刊誌『致知』。6月号が届き、ざっと読んでいた中で、こころに深く響いた部分があったので、共有したい。
特集「看脚下(かんきゃっか)」のリード文。
看脚下とは禅語であり、あしもとを診よ、というおしえだそう。いま、自分がここで何をしなければならないかを、とっさにつかんで実践することがその真意。
この意味に関して、本に書かれた話が印象深い。
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大島みち子さんという女性の話。
子どものころは頭もよく、体もすこやかでいい子だった。その大島さんに異変が生じたのは高校に入った時のこと。顔の軟骨が腐るという難病にかかった。その治療のため、高校は5年かかって卒業。京都の同志社大学文学部に進学。だが、病気が再発。長い病院生活となる。その間に河野誠さんという学生と知り合い、手紙を交わすあいだ柄になる。
この大島さんが書き残した文章を集めたのが『若きいのち日記』。その本のなかで、大島さんはこう書いている。
「病院の外に健康な日を3日ください。1週間とは欲ばりません。ただの3日でよろしいから病院の外に健康な日がいただきたい」
「1日目。私はとんでふるさとに帰りましょう。そしてお爺ちゃんの肩をたたいてあげたい。母と台所に立ちましょう。父に熱燗(あつかん)を1本つけて、おいしいサラダを作って、妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。そのことのために1日がいただきたい」
「2日目。私はとんであなたのところへ行きたい。あなたと遊びたいなんていいません。お部屋をそうじしてあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、おいしい料理を作ってあげたいの」
「3日目。私は一人ぼっちの思い出と遊びましょう。そして静かに1日が過ぎたら、3日間の健康にありがとうと、笑って永遠の眠りにつくでしょう」
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特集では「自らの人生を看脚下し、見事に生きた人の姿をここに見る。若くして逝った女性の生き方にならい、わたしたちも自らの看脚下を深めていきたい」とつづっていた。
わたしはこの雑誌を電車の中で読んでいた。読み入ってしまい、涙がにじんできてしまった。人目をはばかり、なにごともなかったかのように遠くの景色に目を転じた。
ふだん、病気など意識することのない日常をおくっていると忘れてしまうこと。大切なことはなにか。
それは、家族であり、なにげない日常のくらしなのだ。
だれかのために時間をつかい、最後の1日だけは自分のために生きる。
わたしも、そうありたい。
全文は『致知』6月号をお読みいただきたい。