五輪の意義

「経済停滞期に五輪 意義は」と題した意見が新聞に載っていた。主張者は東大大学院教授の吉見俊哉さん。以下、主旨を引用したい。
・昨夏の東京五輪から1年になる。失敗したこの五輪は早く忘れたい。コロナの拡大で運が悪かったとも言える。だがコロナ前からつまずいていた。スキャンダルだらけであった。
・当初の新国立競技場の設計案は変更された。エンブレムも撤回された。都知事とJOC会長は開催決定後に辞任に追い込まれた。開幕直前になって演出チームが解任された。
・振り返ると我が国は過去半世紀、おおむね10年ごとに夏季か冬季の五輪を開催しようとしてきた。1964年の東京。1972年の札幌。1988年に名古屋開催を目指したがソウルに負けた。1998年は長野で冬季を開催。2008年に大阪でやろうとしたが北京に負けた。そして、2020年(実際の開催は2021年)の東京。そして2030年の招致を目指す札幌へとつづく。ちなみに、招致に敗れた名古屋では2005年に万博を開いた。大阪も2025年に万博を開く。
・この流れは決して偶然ではない。五輪や万博という「お祭り」が国家のシステムとしてつづけられ、開催することが自己目的化している。ビックイベントを開催すれば、国から特別にお金が出る。地元自治体や建設業者、不動産業者らはお金が落ちてくる、開発できると期待する。巨大な公共事業としてビックイベントは位置付けられてきた。
・1964年の東京五輪、1972年の札幌五輪は成功だった。経済効果があり、都市開発も進んだ。なぜなら、この時期は高度成長期だったからだ。つまり、五輪を開いたから経済が成長したのではなく、経済が成長している時期に五輪を開いたから成功したということだ。
・成長を前提にできなくなったこの時代に、五輪や万博という巨大な公共事業としての「お祭り」をつづけることにどんな意味があるのか。短期的な利益ばかりを追い求める社会は持続可能ではない。いまこそ、20年30年先を見据えた地域ビジョンを描くべきであろう。
なんとなく、もやもやと思っていたことが言語化されていた。スポーツ業界の人々にはもうしわけないが、問題は巨額の費用がかかりすぎることであろう。人口減少が進み、高齢化真っ最中のこの国に、優先順位をつけるとするならば、五輪のようなわかりやすいビックイベントではないと思う。主張者の言うように「長期的なビジョン」と地道な努力のように思う。