「ソサエティー5.0」社会はアップデートされるのか

先日の新聞、「各自核論」というコーナーに考えさせられる論考が載っていた。総合研究大学院大学長の長谷川眞理子(はせがわ・まりこ)さんの小論だ。「社会はアップデートされぬ」と。
「ソサエティー5.0」という言い回しをよく聞く。これから目指すべき社会だということで、日本政府は随所でこのことばを使っているそうだ。このワードに疑問を呈している。結論的には、「なぜ社会全体をひとくくりにしたようなことを(政府は)言うのか。それは日本が真に社会や人間のダイバーシティ(多様性)の問題に向き合ってこなかったからだと思う」としている。「ソサエティー5.0と言っても世界では通じない」日本に固有の言い回しもであると指摘する。
内閣府が言う人類がたどってきた歴史は、狩猟/採集社会=1.0、農耕社会=2.0、工業社会=3.0、情報社会=4.0。これからはさらにデジタル革命が隅々にまで進んだ社会=5.0になると。
わたしたちホモ・サピエンスという動物は、およそ30年前に現れたとされる。人類はこれまで何百万年というぼうだいな間、狩猟採集生活をしてきた。農耕と牧畜を始めたのは、この歴史の中でほんの1万年前からである。その後、産業革命が起こって工業化社会になったのは1850年ごろの欧州であった。人類の歴史の中で見れば、最後の数秒のことに相当する、ごくごく最近のことなのだと。
この「なになに5.0」のような言い回しは、ソフトウェアのアップデートが人々の日常に浸透してからだろうと著者は指摘する。ウィンドウズのソフトも常にバージョンアップされる。アップデートすることが当たり前になり、そうしなければついていけなくなった。競争に勝てなくなったと。では、「社会」という大きな組織体は、ソフトウェアと同じようにアップデートされるものだろうか。長谷川さんはこれに「違うと思う」と異論を唱える。狩猟採集社会は人類の基本的な生活様式であった。そこで培われたさまざまな適応策は、いまだに私たちの遺伝子や脳の働き方に組み込まれている。進化した脳の働きによって、農耕と牧畜を発明したり、工業化文明を築くことができた。しかし、これらはある特定の技術分野の変化や進展である。ならば、そう言えばいいだろう。DXという「デジタルトランスフォーメーション」という言い方がある。こちらの方がまだしも事実を正確に表している。
この論調を読んで、たしかにそうだと思った。現在の地球上にも「いまだに狩猟採集生活をしている人々は存在する」と言う。その人たちは「遅れているのか」と。人々の暮らしをベースにした「社会」は、コンピュータのソフトウェアとは違うんだ。一緒にするな、と長谷川さんは怒っているように感じた。
マーケティングの世界でも、ウェブの世界でも、この「なになに5.0」という表現が広く使われている。これを、安易に世の中全体のことにあてはめてはいけないということなのだろう。鋭い指摘に考えさせられた。