高校の教科書でおさらいする北海道の歴史

北海道鳥瞰図屏風|吉田初三郎筆|1936年

今からおよそ1万年余前、縄文時代のころ。縄文文化が日本列島全域におよんだのに対し、北海道には弥生文化がおよばなかった。北海道では「続縄文文化」とされ、食料採取文化が続いた。7世紀以降になると、擦文土器をともなう擦文文化やオホーツク式土器をともなうオホーツク文化が成立する。これらの文化も、漁労・狩猟に基礎をおく文化である。(道内に弥生文化=水稲耕作がなかったのは、寒さのため)

北海道の記述が出てくるのは、室町時代のころ。
すでに14世紀には畿内(京都に近い五カ国のこと)と津軽(青森県)の十三湊(とさみなと)とを結ぶ日本海交易がさかんにおこなわれていた。サケやコンブなど北海の産物が京都にもたらされた。やがて人々は本州から「蝦夷ヶ島(えぞがしま)」と呼ばれた北海道の南部に進出し、各地の海岸に港や館(たて)を中心にした居住地をつくった。彼らは和人といわれ、津軽の豪族であった安藤氏の支配下に属して勢力を拡大した。

古くから北海道に住み、漁労・狩猟や交易を生業としていたアイヌは和人と交易をおこなった。和人の進出はしだいにアイヌを圧迫し、耐えかねたアイヌは1457年、第首長であるコシャマインを中心に隆起し、一時は和人居住地のほとんどを攻め落とした。しかし、「道南十二館」と呼ばれる和人居住地の内、茂別館と蠣崎(かきざき)氏の花沢館は攻め落とされず、まもなく上ノ国の領主・蠣崎氏によって静められた。それ以降、蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には「松前」と名乗り、蝦夷地を支配する大名となった。

江戸幕府時代。1604年に徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され、松前氏は藩政をしいた。和人地以外ん広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団との交易対象地域は、「商場(あきないば)」あるいは「場所」と呼ばれた。ここでの交易収入が徳川家康にあたえられた。アイヌ集団は1669年、シャクシャインを中心に松前藩と対立して戦闘を行った。しかし松前藩は津軽藩の協力を得て勝利した。この「シャクシャインの戦い」でアイヌは全面的に松前藩に服従させられた。さらに18世紀後半ころまでには、多くの商場は和人商人の請負となった。アイヌたちの多くは、この段階ではもはや自立した交易の相手ではなく、漁場などで和人商人に使われる立場に変わっていた。和人はアイヌを交易でごまかしたり、酷使することがあった。和人の進出は函館〜松前〜上ノ国・江差〜熊石あたりの渡島半島の一帯だった。

江戸幕府の衰退期。1792年、ロシアの使節ラスクマンが根室に来航。アリューシャン列島に漂流した日本人を届けるとともに通商を求めた。その際、江戸湾入航を要求されたことをきっかけに、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。1798年には幕府は近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探査させ、翌年、東蝦夷地を直轄地とした。1804年には、ロシア使節レザノフがラクスマンの持ち帰った入港許可証を持って長崎に来航したが、幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、ロシア船は樺太や択捉島を攻撃した。この間、幕府の対外防備は増強され、1807年には、幕府は松前藩と蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行の支配のもとにおき、東北諸藩をその警護にあたらせた。その後、ロシアとの関係はゴローウニン事件を機に改善され、幕府は1821年に蝦夷地を松前藩に返した。

明治維新のころ。旧幕府側と新政府軍が戦う戊辰戦争がおこった。1869(明治2)年、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚らの軍も降伏。国内は新政府によってほぼ統一された。政府は北方を開拓するため、1869(明治2)年、蝦夷地を「北海道」と改称。開拓使という役所を置き、アメリカ式の大農場制度・畜産技術の移植をはかろうとした。クラーク氏をアメリカから招き、札幌農学校を開校した。1876(明治7)年には、士族授産(職を失った武士階級身分の人々を救済するための一連の政策のこと)の意味もあって「屯田兵制度」を設けて、開拓とあわせて北のロシアに対する備えとした。1882(明治15)年には開拓事業が終わったので、開拓使を廃して、函館・札幌・根室の3県をおき、その後、1886(明治19)年、今度は3県を廃して北海道庁を設けた。